武蔵野コンフィデンシャル

物書き岩戸の日常と身の回りを綴ります。

Saturday, July 05, 2008

個としてのスラム

小泉内閣の頃から、日本にスラムが生まれるのではないかと
懸念してきた。
友人の経済学者は、日本ではあり得ないよと答えた。
今はかなりその存在自体が曖昧になってしまっているけれど、
昔、日本が貧しかった頃、スラム街は現実にあったのは確かだ。

秋葉原の事件をきっかけに気づいたのだけれど、
多分、もうスラムは日本に生まれているのだな。
ただ限られたエリアがスラムといった存在ではなく、
個のスラムとして社会に混在してるのだな。

僕が見誤っていたことが一つあった。
たとえばアメリカのスラムは救いようのない絶望に満ちているけれど、
どこのスラムにも教会があるということだ。
教会の存在で人は決して救われないのだけれど、
少なくともコミュニティの核という存在にはなりうる。

現代日本的な個のスラムには、最低限のよりどころとなる
コミュニティすら得られない。

ネットがそのコミュニティになりうるんじゃないか? と
アルファブロガーの友人が言った。
果たしてそうなりうるのか。
ある程度はなり得るだろうけれど、孤独なある個人にとって
それはすがり得ない物ではないのか。
なり得ないから、人は追い詰められているんじゃないのか……。
人が本当に必要とするのは、
いつ消えるのかもわからない仮想空間における仮想のつながりではなく、
人の温もりではないのか?