武蔵野コンフィデンシャル

物書き岩戸の日常と身の回りを綴ります。

Saturday, March 25, 2006

ドリームキャッチャー


 ドリームキャッチャーを初めて知ったのは2000年の春先のことだった。車でシカゴからLAまでの大陸横断を行っている時にふらりと立ち寄った、サンタフェの路上市場でネイティブアメリカンたちが色とりどりのドリームキャッチャーを売っていたのだ。
 日本ではそのずいぶん前にキムタク主演のドラマの小道具で使われて人気が出ていたらしいが、そもそもテレビドラマを見ない質の上に、シカゴで暮らしていたので全く知らなかったのである(ネイティブアメリカンが多いある街で「日本人は良いお客さんだよ!!」とか言われたりして……)。
 ドリームキャッチャーというから最初は夢を叶えるマジカルな道具かと思った。ほら誰だって、夢を叶えたいと思うじゃない? それがネイティブアメリカンの呪術的道具だったら効きそうだしさ。もっとも僕は夢が叶うということすらシニカルに見つめるペシミストなんだけどね。叶った後に何が待っているのかを知っているからさ。
 さてドリームキャッチャーなんだけど、本当は悪夢を捕まえるという一種のお守りなのだった。ドリームキャッチャーに引っ掛かった悪夢は朝の光で消えてしまうのだということである。
 金属をベースに作られたホイルーに糸が巻かれ、さらに糸がまるで蜘蛛の巣が張られたようなドリームキャッチャーは綺麗だし、ずいぶんロマンチックな道具だなとシニカルな僕ですら思う。
 お土産用にいくつか買い求め、さらにアリゾナのフラグスタッフでも幾つか購入した。
 ホテルのスーベニールショップでドリームキャッチーを両手に持ってカウンターに持って行ったら、レジのおばさんが、「今日はいらないよ」と言う。意味が分からず、「?」という顔をしたら、アジア人だと気づいてくれた。その時の僕はヨレヨレの服を着てネイティブアメリカンがよく被っている帽子を着用していたのである(笑)。
 日本に帰った時、友人達に配ったら、みんな結構喜んでくれてあっという間にソールドアウトとなった。
 写真のドリームキャッチャーはその後、LAにインタビューの仕事で訪れた時サンタモニカで買ったものだ。大陸横断の時に買った物は全部あげてしまったから、どこかに売ってないものかと探したら、ネイティブアメリカン関連の商品を扱っているお洒落なショップで見つかった。
 かなりデザインされていて伝統のものとは似てもにつかないけど、結構気に入っている。悪夢をキャッチしてくれているかどうかは知らない。悪夢には慣れっこだから。

Thursday, March 23, 2006


 スーパーで安く売られている卵なんて正直、生臭くて食べられない。
 今、我が家で使っている卵は東北の農場の有精卵である。
吉祥寺にある東北地方のアンテナショップで販売されているもので、一個、40円。
コストパフォーマンスが高いと思っている。
美味しい卵はいろいろあるけれど、一人暮らしだとどうしても取り寄せる個数が少量なので、
送料が高く着いてしまうので身近で買える物を選んでいるのだ。
 有精卵、無精卵の味の違いは正直言って僕にはわからない。
わかるのは卵の味を決定づけるのはエサだということ。
有精卵を選んで買っているのは、とりあえず良かろうと選んでいるということでしかない。

 以前、北海道の平飼いの採卵場を訪ねたことがあった。
鶏はとても健康そうで、こいつを食べたらさぞや美味しかろうというくらいのものだった。
東京に帰った後、ここから卵を送ってもらった。
確かに黄身の盛り上がりなんて大したもんだったが、味はいまいちだったのである。
実はこのことは送ってもらう前から大体の見当はついていた。
その農場ではエサの内容を公開しているのだけれど、
有機・無農薬の野菜を与えている以外わりと普通で特筆すべき物がなかった。
アレと思ったのは、タンパク質を補うために魚粉を与えていることだった。
魚粉を与えすぎると生臭くなるのだ。魚粉の影響は感じられなかったが、どうにも味が薄いのである。

 その逆で極端なのは四万十川上流で育てられた鶏が生む神果卵というもの。羅漢果を中心に漢方薬を組み合わせたエサで育てているという。その卵、なんと一個300円。ものは試しと一個買って食べてみたが、黄身に味があり過ぎる。羅漢果の甘酸っぱい味がもろに出ているのである。いじりすぎだと思った。

 5年ほど前、ある農法で育てられた卵(育てられたというのも変だが……)を毎日のように味見した。
確かに濃厚だった。まるでクリームのように濃厚だ。美味いことは美味い。
でも味がフラットなのだ。表現が難しいけれど、舌に当たる味が立体的じゃないんだなあ。
その農法の鶏舎も見たけれど、ケージ飼いの無精卵だった。
鶏はそもそも木の上で回りから身を隠して生活していたものだから、ケージでいい、むしろケージ飼いが正しいのだと農法の提唱者は言う。そうかな? と思う。
エサにはカテキンを多く含むお茶他を与えていた。
 この農法提唱者と行動をともにすることによって、卵の味はエサによるということを知ったというわけだ。でもその農法で生み出される卵が濃厚であることはわかるが、美味いかどうかは今のところ判断停止である。
 卵を選ぶのはとても難しい。

Tuesday, March 21, 2006

スノードーム



 僕の趣味の一つに、スノードームのコレクションがあった。
ある理由から止めちゃったけど、今でも大好きだ。
僕が集めていたのは都市物だったんだけど、
小さなガラスのドームの中の都市に雪が舞う風景はいくら眺めていても飽きることがなかった。
 雪が舞う都市風景なんてとてもロマンティックだ。
 箱庭の一種的なものかもしれないが、とにかく楽しいものである。
 スノードームは19世紀前半にペイパーウエイトとして誕生し、
パリ万博でエッフェル塔を封じ込めた物が記念品として売り出され、
それから旅の記念品として一世を風靡したのだということだ。
 僕が最初に買ったのはニューヨーク。
山田詠美さんとダグの結婚式に参加するため、初めてアメリカを訪れた時のことだった。
その次はパリだったかな。
マルセイユではその後アフリカを這いずり回ることになるんで泣く泣くあきらめたっけ。
 こういうものはお土産物屋に置いてあることが多いんで、
しばらくお土産物屋を回る変な旅人と化していた期間が続いた。
 友達も旅人が多いんで、あちこちの土地で買ってきてくれた。
最終的に30数個集まったっけなぁ。ダイニングキッチンに置いてあったテレビの上に飾っていた。
でもある日、泥酔した僕は何故かテレビごと床に落っことしてしまったのだ。
翌日起きて愕然とした。
何かをしようとして、テレビをいじっていたのは覚えているんだけど、
いったい何をしようとしてたんだろう? 
とにかくこの事件で僕のコレクションの半分は木っ端みじんになってしまったのだ。
 補修できる物は補修して飾っていたけれど、
引っ越しを期にトランクルームの奥に仕舞い込んでしまった。
 もう一つの理由はシカゴのマーシャルフィールドという百貨店が、
クリスマスの時期限定で『不思議の国のアリス』のスノードームを売り出したことがあった。
もの凄く欲しかっったんだけど、『不思議の国のアリス』のスノードームを大事に飾っている中年男なんてなんだか危ないじゃない? 
意味性があり過ぎるよなあ……なんて思っている内に、
そもそもコレクションなんて柄じゃないなと思い始めたのももう一つの理由。
僕はこれまでの人生でコレクションというものをやったことがなかったのだ。
コレクションなんて人生のお荷物を増やすだけでしかないと思ってきた。
これまでのように荷物を増やすのはやっぱりやめよう、そう思ったのだ。
 一つだけ残してあるのが、写真のシカゴのもの。
深夜、ウイスキーを飲みながら眺めているといろんなことを考えたりして、いいものです。

Sunday, March 19, 2006

サモワール



子供の時から憧れてきたものにサモワールがある。
サモワールはロシアのお茶を入れる道具だけど、
知らない人が結構いて吃驚したりする。
まあ僕が子供の頃って日教組全盛の時代で、
教科書にもロシアものが多かったから しょうがないことなんだろうなあ。
ペチカに憧れたりしたしたもんだもの。
♪ 雪の降る夜は 楽しいペチカ~ ♪ 
小学校の給食にだってボルシチがあったしなあ……。

ロシア民話の『石の花』だってそのころ知ったわけだし、
『12ヶ月物語』なんてほんとに陶然とするほど神秘に満ちて感じられたもんだ。

*12ヶ月物語は森の中で12ヶ月の精と出会う話だ。ある日主人公は森でたき火をしている一団と出会う。そこには一月の精がいたり、2月の精がいたりする。同じような民話は日本にもあるんだけどね。

受験で東京に出てきた時、目黒に宿を取ってたんだけど、
駅の近くにロシア料理の『ロゴスキー』を見つけてよく飯を喰ったもんだった。
そこで生まれて初めてちゃんとしたボルシチを食べ、ロシアンティーを飲んだ。
わりと僕の口には合っていて、美味いものだと思った。

僕は別にロシア自体は好きってわけじゃない。
行ったこともないし行きたいとも思わないんだけど、
何故か魅かれるところがあるし、実際に縁もある。
昔の嫁さんがロシア史の研究者だったりするんだもんなあ。
そんなもんだから正しいボルシチの作り方とかも仕込まれた。
大きく切ったジャガイモ、ニンジンが入っていて、
トマトで味を付けてるのはロシアのボルシチじゃなくてウクライナのやり方だとかね。
ロシアのボルシチはキャベツ、ジャガイモ、ニンジン、ビーツ、肉と全部千切り。
前日に肉の塊とビーツを茹でてスープを作っておく(こうすると頑固なビーツも柔らかくなる)。

できあがったボルシチをつぐ時、お皿にまずビネガーを入れる。
これが酸味のもとで、他のはトマトで酸味をつけているってこと。
ボルシチを注いだら、最後にサワークリームを入れて食べる。
面倒臭そうだけど、わりと簡単。
それに結構美味い……。

あっと、サモワールの話をするつもりだったんだ。
サモワールは水を入れるタンクの真ん中に筒が仕込まれていて、そこに火を付けた炭を入れる。
するとタンクの中の水はお湯になるし、上に載っけたティーポットではお茶が入るという算段だ。
ティーポットの中の紅茶は濃く入るので、タンクのお湯で適宜薄めて飲むんである。
サモワール自体が手あぶりにもなるし、いつでも暖かいお茶が飲めるという
寒いロシアにぴったりの道具なんであるのだな。
よく紅茶の中にジャムを入れてロシアンティーと言っているけど、それもウクライナのやり方で、
ロシアではジャムを舐めながら紅茶を飲むんだと彼女は言っていた。

あと、お砂糖も紅茶に入れないで、直接囓りながら飲むというやり方もあるんだ。
あんまり綺麗じゃないんだけどこうすると砂糖の消費量はぐっと減るし、
砂糖を直接入れないから途中でブラックティーに切り替えるのも自在である。

さて、僕のサモワールはイスタンブールで買った真鍮製のもの。
トルコはロシアと様々な交流があったのでサモワールなんてのも日常道具として使われているのだ。
エジプシャンバザール裏の道具屋街で見つけたのだけれど、
一目で気に入って、日本までだき抱えて帰ってきた(笑)。
通訳のトルコ人は呆れてたけど……。

僕はちょっと変わった物好きなんである。

Friday, March 17, 2006

ゲイルスバーグ



……そして焼き付く夏の日々を、また秋を、街路につらなる並木の黒い枝々に雪の降り積もる冬の日を、私は愛する……(ジャック・フィニィ『ゲイルスバーグの春を愛す』福島正実訳より)

「ゲイルスバーグってさ」
とその人は言った。僕は聞き返した。
「ゲイルスバーグって、『ゲイルスバーグの春を愛す』のゲイルスバーグ?」
その通りだった。その人はあのゲイルスバーグからやってきたのだった。

ゲイルスバーグ……。シカゴからアムトラックに乗って4時間ほど西に行ったところにある。ミシシッピー川に近い、イリノイ州の西のはずれの小さな街。
『ゲイルスバーグの春を愛す』はその街にあるノックスカレッジの学生だったジャック・フィニィによって描かれたファンタジーだ。ジャック・フィニィはペーパーバックノベル作家でアメリカではあまり評価されていないが、日本ではとても人気がある。かく言う僕も彼の作品を愛する一人だ。『ゲイルスバーグの春を愛す』は僕が18の時に日本で出版されているが、手に取ったのは20歳の時だった。その後、僕がゲイルスバーグを幾度も訪れることになるとは、その時には想像もしていなかった。

「そうかね、ジャックはそんなに日本で人気があるのかね」
終戦後からゲイルスバーグに住んでいる、ノックスカレッジの日系の老教授は愉快そうに笑った。
「そういえば、昔、日本人女性がこの町を訪ねてきたことがあったよ」
どこへ行って良いのか途方に暮れる彼女を見て街の人が、日本語を話すことが出来る教授に電話してきたのだという。ゲイルスバーグは時々、ファンタジー漫画の舞台として描かれている。この街を訪れたという日本人女性は多分そんな作品の一つを読んで、やってきたのだろう。
でもこの街にあるまともなホテルは一軒だけだ。それもチェーンのモーテルで、かなりくたびれている。

ゲイルスバーグを初めて訪れることになった時、僕だってドキドキしたものだ。だってあのゲイルスバーグに行くんだもの!!
春3月。シカゴのセントラルステーションを出発したアムトラックは、ときめく僕を乗せて夕焼けの大地を走っていったのである。
でもね着いてみたら、そこにあったのはなんだか西部劇に出てきそうな通りだけバカっ広い、ほらよくアメリカ映画に出てくるような空疎な街並みだったんだ。メインのストリートはほとんどシャッター通りだ。郊外に出来たショッピングコンプレックスにお客を取られてしまったということだった。駅の近くにある街一番のカフェ、『ランドマーク』で自慢のスピナッチビスク(まあ、ほうれん草のポタージュだね)を食べた。でもこれが、ちょっと時間が経つとバターがもの凄い勢いで湧いてくる、恐ろしい物だったんだよね。

次に訪れたのは9月のこと。シカゴから車で行った。かかった時間はアムトラックと同じくらい。でもこの時は素敵だった。金色に輝く大豆畑!! まるでオズの魔法使いのドロシーやかかしや、ブリキの木こりや、臆病なライオンが姿を現しそうだった。そして空にはなんと複葉機までもが飛んでいた。この季節には複葉機のフェスティバルが開かれるのだと言うことだった。

この時の僕の気分はまるで、レイ・ブラッドベリの『タンポポのお酒』の主人公・ダグラス少年みたいだったんだ……(ブラッドベリはシカゴの北にあるワキガンという街の出身である)。

僕が20の時に買った『ゲイルスバーグの春を愛す』の単行本は、ゲイルスバーグからやってきた人のもとにある。

Wednesday, March 15, 2006

石の花



その石のことを初めて知ったのは、24~25年前のことだった。
今でも西新宿にある『ローズ・ド・サハラ』というアフリカン・レストランでのことである。
店のロビーに不思議なかたちをした石が置かれていた。
沢山の小さな石板は花弁のようで、それが互いに支え合うように集まり、
確かに薔薇の花のようにも見える不思議な石だった。
店名として採られた『ローズ・ド・サハラ』=サハラの薔薇石だったのである。
別名が『デザート・ローズ(荒れ野の薔薇)』ということもその時知ったように思う。
僕が薔薇石に魅かれたのは子供の頃に読んだ
ロシア民話の『石の花』という言葉が心の奥に残っていたからかもしれない。
確かロシアの『石の花』はウラル地方の民話で、王から石の花を彫れと命じられた彫刻家が
山中に咲くという本当の石の花を探しに行くというものだったと記憶している。
なんとロマンチックな話だろうと当時の僕は思ったはずだった。
えらく感じやすい子供だったのだ。

その石の花が咲くところがあった……。
ウラルではない世界のどこか……、そう石の花はサハラ砂漠に咲いていたのだ。
僕の心はときめいた。

2000年、パリ・ダカールラリーの取材でサハラを訪れた時、
砂漠や砂の街をはいずり回りながら、薔薇石を探したがついに見つけることはできなかった。
本当にサハラにその石はあるのか? と疑ったほどだった。
だってサハラのど真ん中や一番奥で必死に探したんだぜ!!

それから10数年後。チュニジアを訪れた時のことである。
チュニスのメディナの中をうろついていた僕は、ついにそこで薔薇石を発見した。
土産物屋の店頭に山のように積まれていたのである。
しかもほとんど捨て値同然だ。
あるところにはあるのだな……、と唖然とした。
現地の人に聞いた所によると、干上がったオアシスにできる結晶石であるという。
おそらくはオアシスの水に含まれるカルシウムなどが、干上がる時に結晶した物なのだろう。

捨て値同然と書いたが、実のところ捨て値と感じたのは僕たちの貨幣価値であって、
薔薇石は現地でとても大事にされているものなのである。
ただ大きく形の良い物は少なく、それ以外のものは高値が付かないのだ。

僕の部屋には今でも小さな石の花が置かれている。
砂漠の薔薇石はやはり神秘的だ。

Tuesday, March 14, 2006

パーカー51



最近、万年筆マニアだと紹介されることがあった。
マニアかどうかは知らないけど、万年筆は好きでかなりの数をもっている。
まあ物書きという商売だから、筆記具はお守りみたいなものでもあるのだ。

で、ちょっと大事にしている万年筆のことを書きたい。
8~9年ほど前にニューヨークで買った古いパーカー51のことである。
1万円前後だったと思うけど、はっきりとは覚えていない。
パーカー51が発売されたのは1941年、太平洋戦争が勃発した年である。
その後、改良を施し続けながら、ずいぶん長い間販売し続けられた。
だから世界でもっとも成功した万年筆とも言われている。
僕が十代の頃はこの万年筆が入学祝いに贈られたもんだった。
写真で見ると判るけど、 ペン先はボディに隠されていて、ちょこっとだけ出ているだけだ。
それが当時の僕にはすごく不満だったんである。

僕はクラッシックなペン先が露出したヤツが欲しかったんだなあ。
なんだか、51はモダン過ぎて嫌だった。
それに世界的に51のまねをしたモデルで溢れていて、
このスタイルはつまらないありふれた物でしかなかったんだ。
だから貰ったヤツもほとんど使わないでしまったまんま、どこへいったかもわからない。
でもペン先がきっちり露出した物なんて、ものすごく高くて手が出なかった。
だいたい高校生は万年筆なんて使わないんだもんなあ。
東京に出てきて、アルバイトで貯めた金を握りしめて、
速攻御徒町へ行き、軸が茶マーブルのペリカンの万年筆を買った……。
ずいぶん使ったけど、結局、どこかで落としちゃったんだ。

それ以降、使ってきたのはペン先が露出したヤツばかり。
モンブラン、シェーファー、オマス、ビスコンティー……。

でもね。年を取ると、そんな51が懐かしくなっちゃうんだなあ。
欲しくて欲しくて、ニューヨークで探したってワケである。
ビレッジのビンテージ万年筆ショップですぐに見つかった。
ものすごい数が流通したものだから、値段もとてもリーズナブルだった。

日本に帰ってすぐに老舗の万年筆店でメンテナンスをしてもらった。
「これはあまり使ってませんね。この頃のものは材質に妥協がないんで、一生使えますよ」
とご主人が言ってくれたのもとても嬉しかった。
僕の51をカタログでチェックしてみたところ、
50年代のもので僕が生まれる数年前のものらしい。
日本が一生懸命で、とても幸せだった頃の万年筆だ。

今は記念モデルとして数年前に再生産されたヤツとこれの2本の51を所持している。
日常的に使ってるのはペリカンの2千円もしない、学童用の万年筆なんだけどさ(笑)。
でも万年筆は良い物です。
旅先で絵はがきにペンを走らせていると、ホントに旅人の気分になるんだから……。

始まり

東京コンフィデンシャルの個人版として書いていこうと思います。
こちらはホントにプライベートなブログです。